吉祥寺オステオパシーセンター おおはら治療室|080-5513-1136

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オステオパシーは哲学です。
なんていきなり説明されても間違えなく「?」がつくでしょう。

過去の歴史から追っていくとオステオパシーへの理解が深まります。
ここではオステパシーが創始された歴史についてまとめています。

オステオパシーの歴史

オステオパシーは1876年、今から140年以上前にアメリカの医師 A.T. Still が創始しました。

still
A.T. Still は当初普通のメディカルドクターとして活動していました。
当時の医学は水銀を多く使用していたり、瀉血(血液を外部に排出させる治療法)が頻繁に行われているような環境でした。
また、白衣に血が沢山ついていた方が箔が付くというような風潮もあり、感染症で亡くなる人も後を絶たない状態でした。

そのような環境下で A.T.Still 自身も自分が診ている人が治らない、また、より悪くなっている状況があったようです。
それだけではなく、当時ウィルス性の感染症が猛威をふるい、愛する3人の子どもを髄膜炎で亡くすという悲劇にあってしまいました。これが1864年の出来事でした。

stillA.T. Still は医師を辞めようとしましたが、医学にかかっても治らない人がいる反面、医学にかからなくても治る人がいることに疑問を持ち始めます。
その後、南北戦争が始まり、A.T.Still は軍医として活動することになります。

そして、南北戦争が終わった後、A.T.Still は当時欧米で流行していたボーンセッター(骨接ぎ療法)など、色々な代替療法を調べ始めます。
また、それだけにとどまらず、患者が病気で亡くなった後にからだがどのように変化しているのか死体解剖を相当数行い研究を積み重ねていきました。

そういった中で A.T. Still が着目したのが構造の歪みでした。
構造の歪みや緊張が神経系や循環器系に影響を及ぼし、それが人のからだを病気に陥るようにしているという仮説を立てます。
その後、更に研究を重ね、子どもを亡くして 10年という月日が経過した 1874年6月に「オステオパシー」が創始されました。

そういった背景から「オステオパシーは徒手で行う数々の代替療法を医師がまとめあげたもの」という意見もあります。

オステオパシーの発展

A.T.Still は1874年にオステオパシーを創始した後、その考えをカンサス州にある大学で発表しようとします。
しかし、同じ医師の仲間たちに止められてしまいました。
理由は薬、注射、手術を否定する行為ととられることによるものでした。

A.T.Still には当初医師の中でオステオパシーが広がればという想いがあったようです。
しかしながら、それが叶わない想いとなり、ミズーリ州のカークスビルという田舎町に移りました。
カークスビルに移住してからも自身が創始したオステオパシーへのポリシーや情熱は変わらず持ち続けていたようです。

その後、A.T.Still は1875年から1887年ぐらいまでオステオパシーを練り上げました。
当時、手で治す行為自体、否定的な文化があったようです。
しかしながら、実際に当時の医学で治らない人がオステオパシーによって治っていく、そういった現実が多くなるにつれて A.T.Still が実践するオステオパシーが多くの人から求められるようになりました。
やがて富豪も集まりだし、田舎町のカークスビルに飛行場ができ、ヨーロッパからも患者が押し寄せるまでになりました。

オステオパシーの現在

1917年 A.T.Still が亡くなって以降、アメリカにおいてオステオパシーはメディカル寄りに歩みを進めていきます。
しかしながら、A.T.Still が創始したオステオパシーはアメリカだけではなくイギリスを始めとしたヨーロッパにも拡がっていたため、A.T.Still の意志は140年以上経った今も脈々と引き継がれています。

日本においては、まだまだ一般レベルでの認知が低く、また、オステオパシーを伝える目的や手法などが多様化しているため、客観的にみると混沌とした状態にも感じます。

その中で当治療室では創始者である A.T.Still が残した伝統的なオステオパシーを Fulcrum Osteopathy Study Group で学び、実践しています。

<続けて読むと理解が深まります>

Screenshotオステオパシーの哲学。4つの原理原則

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